随に

まにまに

遊佐未森 潮騒ツアー SHIOSAI 7

 

東京の地を踏むのはいつ振りだろうか。

電車に乗るのも久方ぶりだ。めっきりPASMOを使うことも減った。

文化の日に大手町三井ホールでのアルバム『潮騒』コンサート、今回はバンド編成だ。

すっかりオンラインライブに慣れてきていたし、このご時世と育児中なのもあり、通過はしていたけど降り立つのは年単位振りだと思う。前回が思い出せないほどに。

はじめての会場だったので地下鉄を降りてC4、C4…と出口を見つけ出していざ行かんと角を曲がったら階段の手前にある透明なガラスの自動ドアに激突した。びっくりした。唇が切れて血が出たんじゃないかと思った。涙が勝手に出た。歯科の麻酔をかけたような局部の麻痺感覚。まるきり田舎者だ。4時間くらい経過してもまだ麻酔が切れない感じ。

 

それはさておき、潮騒ツアー。

アルバム『潮騒』の完成度が高く、ぜひともライブで体感したい、それと自分の時間を作ってリフレッシュしたい、と夫に子を頼み、馳せ参じた。本当は、授乳もあるし、春ごろまでライブ参加は無いかな、と思っていた。でも、家事育児に身を捧げ過ぎて、子に声を荒げる日も少なくない日々。自分のための、ひとりの時間を持つことも大事だと相談ごとに乗ってくれる人に言われて決意した。

 


遊佐未森さんといえば、やわらかく、穏やかで、透き通るような歌声という印象が強いが、今回は、「かっこいい」。

何度も鳥肌が立った。

潮騒』ゆえに、アルバム曲に加えて、海をテーマにした選曲だったのだけれど、20年以上前の曲でも違和感なく、むしろ新鮮に展開されるアレンジで一曲ずつを楽しめた。

実は3曲目くらいから涙腺が刺激されており、その後も歌詞やメロディ、演奏や歌声に触発されて、何曲マスクを濡らしたことか。

(この表現、初めて使いましたけれども)

3曲目は、亡くなった友人を想って書いた曲だと聞いた。わたしはこの夏に亡くした父に想いを馳せ、そして思い出す時間を与えてもらえたことにありがたいと思った。

未だに、弔いはこれでよいのか、十二分に思い出すことが出来ていないのではないかという思いが消えることはなく、正解のないこととはいえ、もやもやとした気持ちがまだ心の隅に残っていたので。

余談だけれど、宗教はこのような時に必要なんだなと通夜葬儀の時に感じた。少なくともわたしは、死者の弔い方を知らないのだ。何もわからない素人のわたしたちに、まさしく導師様は「導いて」くださったなあという感覚がある。

そんなわけでまたしてもマスクの中をつう、つう、と涙が伝っていたところ、

「泣かないで 泣かないで」という歌声がわたしに届き、余計にウッとなったのだった。

 


まとまらない、覚え書きの文章になってしまったけれどこれもライブの醍醐味…と勝手に解釈している。

音楽的なことは丸きり音痴なので、遊佐未森さんのどの辺りがすごくてかっこよいのかを表現する手立てがないのが残念ではあるが、こんなに素晴らしいアルバムとライブを体験できて、もう大満足の帰途なのであった。

2時間半、潮騒を堪能できてよかった。

泣きながら待っていてくれる子らと夫にありがとう、だ。(昼寝中にいなくなってごめん…一緒に行くと言ってきかないだろうから、こうしてしまったのだ)

 

 

追記。

ラストの選曲に痺れた。

以前、一日限りのライブの際に1曲目として歌われた曲が、今回は最後を飾った。

オープニングで聴くのと、エンディングで聴くのは、アレンジの違いがあるとはいえ、どちらも趣の違った感慨深さを感じる。

よかった。来てよかった。何度も言ってしまうけど、そのくらい感激したのだった。

 

 

 

入院記録 2

 

明日も朝から授乳だから早く寝なさいってところだ。

 

入院二日目は、七分粥、全粥と進んだ。足りなくてお腹が鳴った時に、腹部の診察を受けていたので「おなか空きますよねー」と苦笑いされてしまった。

ようやく歩けるようになり、午後になって赤ちゃんと二度目の対面。初めて抱っこをする。ちっちゃい。軽い。ふにゃふにゃで、泣き声もまだ弱々しい。かわいい。少し力を入れたら怪我でもさせてしまいそうだ。指ってこんなに細くて小さかったっけ。爪が縦に長くてきれいだな。誰に似たんだろう(夫か)。

今日は授乳が免除されていて、朝から段階的に増えていく。すごく助かる。産褥期に優しい。

お陰で、ご飯を食べて、眠たい時にゆっくり眠れる。二日目までは、なぜか右肩がやけに凝るという以外の目立った痛みはなかった。

とにかく昼間でも眠くなるので、眠って体力回復をはかった。

 

入院三日目。

午前中に書類を出したりして、午後から授乳開始。授乳指導も厳しくなく、お母さんも赤ちゃんも疲れちゃうから、と左右3分ずつ1クールで済ませ、その後はミルク。

年齢的なこともあるし、そんなに母乳出ないかもと言われていたけどやはり出ない。あと、赤ちゃんの方がまだ小さいのもあるし、赤ちゃんも授乳初心者なので、うまく吸えないのだ。

覚悟してたし、一人目の時も大変だった(授乳室で泣いた)ので、こんなもんだろうという感触。その代わり、もう慣れたミルクはよく飲む。母乳が飲めなくてお腹すいたー!となっているところへ哺乳瓶を持っていくとゴクゴク飲んでくれる。健やかに育ってね。

 

この日は午前中に、背中の鎮痛剤の管を抜いた。そしたらもう、下腹部が痛いのなんの。経産婦の後陣痛というか子宮復古(収縮)は、初産婦よりも子宮が広がっている分、キツいらしい。授乳すると更に収縮が起こり、耐えられず、別の点滴をはめる時に訴えたけど「痛みがひかないようならまた言ってください」と言われて、「我慢しなきゃいけないのか?!」とハードルが上がる。が、20分も耐えられずナースコール。鎮痛剤(アセトアミノフェンだった)の点滴を、少量やってもらえる。1/3くらい楽になったかなーと思うが、まだ痛い。授乳室で看護師さんに伝えると座薬を処方してもらえた。これで、だいぶマシになった。座薬は効きが早いってほんとだな。「痛いの我慢しないでね」と、こちらの看護師さんに言われたので、また痛くなったら遠慮せず(しちゃうけど)ナースコールしよう。病院にいるのに痛みにのたうち回るって…と思った日だった。

入院記録1

 

36週で前期破水した。

前回と同じ週数…まさか、分娩予定日(37w0d)よりも前に破水するとは…何が起こるかわからない、それが妊娠出産。

入院予約もしたし、37w1dで産む気満々だったので、破水したかも…と思った時は、まさかまさかと信じられない気持ちでうろたえた。

17時頃に破水した感じがあったが、しばらく様子見をし、夕飯を食べ、風呂に入るという子と夫を入らせ(破水したらシャワー風呂は厳禁。もっと言えば、夕飯もNGでした…)、その間に入院準備。

20時過ぎに病院に電話するとやはり「入院になる可能性が高いので、準備してきてください」とのこと。

病院到着後、破水かどうかの診察。前回もだけど「こりゃ、破水だねー。笑」と明らかに診察してる間も破水が続く。

モニターベルトを付けて今回の妊娠2度目のNSTモニター(前回も一度しかNSTしないまま出産したので、「おお、2回目」とちょっと嬉しかった。今回は自費でモニターベルト買ってたので)。

麻酔科医の方が来られるかどうかの調整をしている声と、何時に手術開始するかのやり取りが聞こえてくる。

一人で留守番できない年齢の子を連れて待っていてくれた夫も、手術の説明を受けて待合室で待機。子がぐずったりして大変だったと思う。手術が終わるまで4時間弱、病院で待機させてしまった。

 

手術前に「何時にご飯食べました?どのくらい?」と訊かれて答えると苦笑され、「気持ち悪くなって吐いちゃうかもしれないけど、まあ大丈夫でしょう」とのこと…。ですよねー…

ここから吐いたらどうしようという焦りも生まれる。

硬膜外麻酔を打ち(ちょっと痛かった)、手術開始。2時間程度の手術だったが、とにかく動物のお医者さんの菱沼さんを思い出していた。

そして終始、嘔気というか気持ち悪さがあって、それを耐えていた。

一人目の時よりも、赤ちゃんが出てくるまでに時間がかかった様な気がして、執刀医の先生たちも何か小声で言いながら腹部の上の方まで処置していた様な感じがして、やや不安になる。

それでも、赤ちゃんは無事に産まれてきてくれて、元気で、ちょっと苦しそうな泣き声を上げた。産後の処置を受けている間も苦しそうだな大丈夫かなと心配になったけど、「元気な赤ちゃんですよ」と連れてきてもらえて、少し安堵。一人目の時は涙が溢れたけど、今回は冷静だった。なんかごめん。

 

《追記》

コロナ禍での手術、マスクを外すことはなかった。

途中、気持ち悪さを訴えたら、酸素マスク?を不織布マスクの上から装着され、そこで呼吸をしていると眠たくなった。

眠いながらも、なんか気持ち悪い。お腹を切ったり縫ったり押されたりする感触だけが鈍くある。途中うつらうつらと眠っていたかもしれないが、始終、気持ち悪さとの戦いだった。

前回同様、恐らく開腹の段階で焦げたようなにおいがした。うう…

《追加ここまで》

 

入院初日は、その後家族とストレッチャーの上で面会し、二言三言交わして、病棟へ。

されるがままに、おそらく数時間おきの検温と血圧測定、産褥ナプキンの交換があったが、とにかく眠たくて、最後の方は返事すらできていなかった気がする。

 

入院二日目も、ゆるゆると眠り、もう昼か?と思ったら、まだ朝の8時くらいだった。かなり眠った気がした。

五分粥をいただき、顔と胸のあたりだけ温かいタオルで拭いて、歩行訓練でトイレへ。

前回は座って立ち上がったら吐き気がして「無理しないでやりましょう」と言われたけど、今回はずっと寝ていたら何だか大丈夫そうな気がして、割とサクッと立ち上がって(点滴の棒に捕まって)、トイレに行くことができた。

これは後から気づいたけど、背中から鎮痛剤の管が入っていたからだと思う。

前回それを入れていたのか不明だが、明らかに前回の方が術後苦しかった。喉の渇き、創部と子宮収縮の痛み、尿が出ないから体の向きを右に左に変えてくれと言われて、痛みに耐えて動いた術後の夜…長かった。

が、今回はほぼ眠っているだけだった。痛み?気に病むほどではなかった。鎮痛剤万歳!!!

今回同じ病院で出産した友達が、術後苦しくなかったと言っていたのはこのことだったのかー。(前回は里帰りして、別の病院だった)

再診(産婦人科)

 

手術後の診察で、まだ子宮内に血液が残っているということで内診台に横たわったまま、その場で除去処置をされ(え?いま?と面食らった。それなりに痛み有り…)、抗菌剤と子宮収縮剤を出されたのだが、薬を飲み終わっても微妙に一週間ほど出血が続いたため、緊急事態宣言も出そうな折、夫の勧めもあって早めに受診することにした。

 

実は最初に受診した時の担当医が病欠のため、手術は代診の先生で、経過観察もその先生で継続の予定だったのだが、今回は違う曜日に訪れたため、また別の先生に診てもらった。

診察室前で待っていたらドアが開き、「○○さんですか?どうぞ」と促されて、若い女性だったので「看護師さんかな?」と思ったら、その方が先生だった。呼ばれたら患者から入室するスタイルなのだが、手ずから患者を招き入れてくださるとは…とまず驚き、わかりやすく丁寧な説明と、痛くない内診&エコー(重要すぎる)、そして今まで内診台でこんな風に気遣いをされたことがあっただろうか、「気分が悪くなっていないですか?」「あと少しで終わりますね」と、控えめながらも優しく声をかけてくださり、一気にファンになってしまった。

 

結局、出血自体は大きな問題もなかった(予想通り)のだが、エコーで「卵巣嚢腫と言われたことありますか?」と初めての単語を聞き、否と答えると、また詳細を丁寧に教えてくださった。

現時点では経過観察となったが、この先生に診てもらうことができて良かったなと心底感じた。むしろ、担当医替えてもいいですかくらいの勢いだ。

妊娠希望を継続しているので、この卵巣嚢腫(かもしれない)がどう転ぶかわからない。

流産の経過中は子宮が大きくなっており卵巣が見えなかったため見つからなかったのだろうという見解だったが、この先生に嚢腫を見つけてもらえた(正しくは去年の人間ドックで発見されたのだが、今回も嚢腫がほぼ同じ大きさだったことと、人間ドックでは「卵巣が腫れている」と言われたので卵巣自体が膨らんでいると思い込んでいたら、卵巣にこぶのような嚢腫ができている、ということも初めてわかった。正しく理解した、というのが正確なのかも知れないが…)、という感覚が強い。

出血量も少ないし大したことないだろうとタカを括っていたけど、わざわざ受診してみて、この先生に診てもらえて本当に良かった。

セカンドオピニオンじゃないけど、なかなかひとつの病気(今回は病気とはまた違うが)を何人もの医師に診てもらう機会は少ない。

医師によって内診・エコーのやり方が違うとか、説明の丁寧さとか、患者の目を見てコミュニケーションしているかとか、本当に十人十色なんだなとわかった。

 

もし次に妊娠することができたら、この先生の担当になる日に受診しようと決めた。

 

向き不向き

 

入院するに当たり、夫ひとりに子を丸二日間以上任せることになった。

産院を退院して以降、子と離れた夜はなかった。はじめての父子だけの暮らし。

内心わたしは、ニヤリとしていた。

子と離れるのはさみしいけど、今までわたしがワンオペでどれだけ大変だったのか、身に染みてわかりやがれ!!と夫に対して思っていたのだ。退院した時には、果たして夫から何を言われるだろう、とも思っていた。

 

病院まで迎えに来てくれた夫は平常運転で何ら変わらなく、「大変だった」の「た」の字も無かった。

なぜ…「すごくいい子にしてくれてたから、大丈夫だった」と言う。「おかずもあったし」と。(外来受診で入院日程が決まった時点で、保育園お迎えの時間ギリギリまでセブンイレブンの冷凍冷蔵のお惣菜を買い込んで帰ったのが仇となった)

 

毎朝わたしが焼いている卵料理も省略し、洗濯機は回せたけど洗濯物は一度も畳んでない(わたしは一日二回まわすし、洗濯物を翌日に残さない)、部屋は(おそらく)散らかしたまま、人数が少ないのもあるけど食洗機稼働も一日一回のみ(わたしは三回)。

それでも、それでも、夫は気にならないのだ。

「ああ、できなかったやー」で、気にしないのだ。

わたしが帰宅することが確定していた安心感もあるのだろう(わたしが帰ったらやればいいからね…)。

 

自分は夫よりも主婦スキルがあると思っていたが、夫の方が主婦・育児に向いている。今回の件で、そう感じた。

 

家事や育児は圧倒的にわたしの方が経験値が高い。これは変わらない。だのに、夫の方が主婦に向いているのだ。

なぜか。

「気にならない」からだ。

子が栄養バランスの取れた食事を摂れなくても、畳んでいない洗濯物や洗っていない食器が溜まっても、部屋がいくら散らかっても、掃除しなくても、気にならない。夫にとって、さほどの大事ではないのだ。

 

わたしならば、部屋が散らかれば片付けないことには寝覚めが悪いし、シンクに食器が溜まっているだけでストレスを感じる。洗濯物が放置されているのなんて、心にわだかまりがあり過ぎて耐えられないし、子にはタンパク質もビタミン・ミネラルも摂取してほしい、できるだけ楽しい食卓にしたい。理想が高いし、減点方式でいくらやっても「これができなかった」となるのだ。

夫は全く逆。

できなかったことを悔いてストレスを感じることなど皆無のように見える。

そうだ、その調子だ。それで家事育児をやればいいんだー!!!てか、おまえさんが育休取って子を育てらばよかったんだよ!!!!!!と思ったし口に出した。

 

全くこの一年半以上、わたしが毎日まいにちあくせくと育児をがんばり、その合間合間に家事をこなして途中からは仕事までして日々をやっとのことで乗り越えていたのに、夫ときたら……

 

見習いたくもあり、呆れる思いもあり、保育園のお迎え時間も迫っているのもあり、これにて終幕。

もろもろのこと

 

今回の入院に至るまでも細かいことは色々あって、何度かツイッターに書こうかと思ったけど、中途半端になりそうで都度やめておいた。ツイッターなんか、中途半端上等!って感じだけど。まじめだなあ。

 

確か、もう心臓が稼働してるはずの7週で心拍確認できなくて「最悪、流産」と言われ、二週後の検診で卵黄嚢は無くなり、胎芽も目に見えて小さく薄く儚い像しか結ばず、今後二週間で出血しなければ(出血しても残留物があれば)手術、ということになり…だいぶ「待ち」の時間が長かった。

入院した時点の資料に「11週」と書かれており、もうそんなになっていたのか、と8週辺りで週数追うのをやめていたので、少し意外だった。トイレに貼り出した妊娠週数カレンダーも見るのがつらくて、7週くらいで外した記憶がある。

 

子宮内に胎嚢(赤ちゃんが入る袋)があると、妊娠しているというホルモンが分泌され続けるらしく、赤ちゃんの生死に関わらず、手術するまでつわりは続いた。術前最後の超音波診断では、胎芽は消失しており(「赤ちゃんは小さくなったりするんですか?」と尋ねると「吸収されたりして、小さくなることもある」とのこと)、胎嚢の形も崩れ始めているとの診断だった。

赤ちゃんは、わたしの中に還ったのかなあと思った。(最終的には血栓感染症のリスクがあるため、子宮内に残っている胎嚢他残留物は除去する手術をした)

 

打たれ弱い自覚はあるので、メンタルがぼろぼろになるのをある程度覚悟していたものの、流産の可能性を示唆された受診当日、翌日に泣いたり色々とあったが、次の受診日までは待ったなしの家事育児仕事に追われて考える暇もあまりなく、担当医が変わって「絶対、流産だね」と宣告(そんな言い方するんだ…とびっくりした)された日も涙を流しながら昼ごはんを食べたけど、やはり入院当日までは日常を過ごした。

入院中も出産直後の産婦さんと同室になったりして、「これは…メンタル来るか?」と身構えたものの、割と早く別室移動になったからか、心にさほど強い波風は立たず、術後の診察待ちの時におそらく近くの分別室から産まれたての新生児の力強い、生命を振り絞って出す泣き声が聞こえてきて、生と死がこんなにも隣り合わせなんだなと感慨深くなったりもしたが、自分でも拍子抜けするほど、メンタル総崩れになったりすることはなかった。

 

帝王切開ですら部分麻酔なのに、腹切しない流産手術で全身麻酔をかけるのはメンタルが不安定になって術中に危険なこともあるからなのかな?と勝手な推測をしたり、人生初の全身麻酔は瞬きをしてる間に終わってびっくりしたり。眠くなる点滴をしたのにそれほど眠気が襲って来なくて「ほんとに大丈夫か??」と疑っていたけど「少し眠たくなってきたかな〜」から「終わりましたよー」までが、一瞬だった。手術台の上で目が覚めてからは意識も割とハッキリしていて、全身麻酔…これが…?と驚く。

麻酔医の方が適量を投入してくれている(?)からなのだろうけど、本当に術中だけ意識が無くなって、魔法なのかと思ってしまうくらいだ。

 

手術前日の深夜に同室のおばあちゃんの時計のアラームが鳴り響いて眠れなかったりもしたけど、術後はよく眠れたし、何より1ヶ月半続いていたつわりがなくなって、すっきりした。

赤ちゃんが生きている間のつわりは「生きてる証拠…」と思えるが(思えないくらいしんどかったりもするけど)、既に亡くなっているのにつわりが続くのは何とも言えないモヤモヤを伴うものだった。人体の不思議。体や脳は、まだおなかに赤ちゃんがいると認識して、つわりを継続する指令を出していたのだから。

 

術後の診察によると、約1ヶ月後に生理が来るらしい。不妊治療をするなら、2回生理が来てから、とのことだった。今回、たまたま初めての自然妊娠だったのと、仕事と育児をしながらの治療を続けられるのか?という大きな壁を感じて、治療には二の足を踏んでいる。これは中途半端な決断では進められない。まだ不安を感じている。

 

折良くと言ったらおかしいが、年末を迎える。

一年の中で一番好きな季節だ。そして年を越したら、一区切りつけられるだろうか。

色々なことがありすぎた一年、忘れられない年だった。

来年は、そのあとは、また違う新しいことに巡り逢えますように。

稽留流産

 

入院するのは、出産以来だ。

今回は残念ながら出産に至らなかったため(「誕生死」とも云うらしい)、母体の今後のためにも子宮残留物(と呼ぶのに抵抗がないわけではないけれど)を除去する手術をするための入院だ。

 

流産は妊婦の1割強が経験するとか、妊婦の5〜6人に一人は流産経験があるとか聞いたことはあったし、実際にそれを恐れていたが、事実この身に降りかかるという体験を現在進行形でしていて、さまざまな感情が湧き起こったり、流産かもと言われてから数週間も経つので感覚が麻痺したりもしたが、割と段階を踏んで受け入れられたような気もする。

 

今年は誰にとっても何某か辛いことのある年だったと思うが、身内でも様々なことが起こり、最後の最後に家族に喜ばしい報告ができたらいいなと考えていたので、落胆した。入院して誰にも会えないばあちゃんに、良いニュースを伝えたかった。

 

総合病院で診てもらっていたので、流産の確率が高いとわかった後の待合室で新生児の泣き声が聞こえてきたときは涙を堪え、女性専用病棟で満床になったからか大部屋で出産直後の方と同室になり「おめでとうございます」と口々に言われているのをカーテン越しに聞くのは、何とも言えない感情を生んだが、耐え切れないことではなかった。

 

病院で生活していると、生まれて初めて入院した出産時のことを何度も思い出した。

本来受けるはずの入院のための母親学級の日よりも早く破水してしまったため、個室であれば電話がかけられることを知らずに必死でLINEによるやり取りをしていたこと、正期産に突入していないからと母親になるための最後の心構えも何も準備できぬまま、自分しか子を産むことはできないのだと腹を括って帝王切開に挑んだこと、それまで妊婦として周囲からあれこれと気を遣ってもらっていたのに子がおなかから出て行った途端に「母親」という巨大な責任を負う人間に変わったこと、授乳に慣れず母乳もあまり出ず、赤ちゃんに飲ませようとしてもすぐに寝てしまうため、次の授乳まで1時間でも連続して眠れたら良い方で、真っ暗な夜中に朝日の差し込む早朝に絶望的な気持ちで授乳室に向かったこと。看護師さんや助産師さんが至れり尽くせりで良くしてくれたこと、寝不足と痛みと責任感と生命の重さと上手くいかない授乳ともうごちゃ混ぜの中で助産師産を前に泣いたこと。退院したらこの手厚いサポートが受けられなくて不安しかなかったこと。

 

よくやった、よくやってきたよ。

朝一番遅く起きてきて、出来上がったあったかいご飯を食べて出て行き、夜中に帰宅して翌日も仕事があるからと夜泣き対応はこちらで一手に引き受けて、週末やっと二人で面倒が見られるとホッとしていると庭で作業を始められた日には何度陰険な雰囲気になったことか。

よく耐え抜いた。

だから今、ここによく寝てよく食べ(偏食だけど)よく笑ってくれる子がいる。

誇りという他ない。

 

なので、また、この子にいつか、きょうだいができたらいいなと願っている。